砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

フランチェスコの平和の祈り

アメリカはThanks giving Day (感謝祭)からクリスマスを挟んでNew years Day (元旦)までをHoly seasonと呼びます。

Holiday では無くHoly season , 聖なるシーズンです。


普段はバラバラに暮らす家族も、この時ばかりは集まり時を過ごすので、友人達のクリスマス ディナーの家族写真がFacebook を賑わします。


ニューヨークの長男夫婦も12月18日ユダヤ教のハヌカの祭はニューヨークで、25日のクリスマスは母方の親族集まるバーモントで、そして新年はロサンゼルスで一緒に迎えようと帰って来てます。


まあ何ともホーリーな忙しさです。


さて私はクリスマスはボッチで過ごし、掃除、洗濯、Netflix を観てましたが、「今際の国のアリス シーズン2」全部見てしまいました。


イエス様の誕生を祝う日としては相応しく無いチョイスとは思いましたが、それなりにハマって見てました。


その後はクリスマスらしいホーリーな物も見ようと思いまして、YouTube を探していたら懐かしい映画がありました。


「Brother sun Sister moon 」は学生の時に観たのでので40年以上前の映画ですね。



アシッジの聖フランチェスコを描いた映画ですが、初めて観た時の感動が甦ってきました。


世俗の欲から解放されて、心の自由を求めて神様への信仰の為、清貧の修道生活を決意する姿に心が動きました。

この映画に感動出来たあの時の自分も純粋だったなぁ〜と思ったりして。


2022年もあと僅かです。

やっとコロナ禍から解放されて、自由が返ってきたかと思いきや、ウクライナ戦争を始め様々と心悩ます現実から解放されない毎日です。


しかし、そんな中でも「フランチェスコの平和の祈り」を口ずさみながら、新しい年に希望を持って元旦を迎えたいですね。



主よ、わたしを平和の器とならせてください。

  憎しみがあるところに愛を、

  争いがあるところに赦しを、

  分裂があるところに一致を、

  疑いのあるところに信仰を、

  誤りがあるところに真理を、

  絶望があるところに希望を、

  闇あるところに光を、

  悲しみあるところに喜びを。


ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

  理解されるよりも理解する者に、

  愛されるよりも愛する者に。

  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

  許すことによって赦され、

  自分のからだをささげて死ぬことによって

  とこしえの命を得ることができるからです。


     by アシッジのフランチェスコ

サプライズ クリスマス プレゼント

さて今日は日本より1日遅れてのクリスマス。



今回日曜日と重なったので月曜日が振替休日なのですが、ラスベガスはNewYear のカウントダウンで今週は超忙しくなるので明日も出勤することになった。


さてアメリカのクリスマスは日本の正月みたいもので、飲食店もスーパーマケットも閉店。

家族が集まりクリスマス デナーを楽しむ時です。

外食しようと思えばチャイニーズに行くしか無いだろう。

(その代わりNew yearsは花火ぐらいの休日)


建国の歴史的背景からして宗教的なので、改めてキリスト教国家と感じる日だ。


そんな訳で今回はロスの帰らずベガスで一人のボッチクリスマス。

教会もサンデーサービスは無く「クリスマスは家族で祝って下さい」とのメッセージで、まあ通常の日曜日と同じように掃除、洗濯とNetflix でも見る事としよう。


しかし、一人でクリスマスを過ごすとユックリと思索する時間も出来る。

「息子達に送ったプレゼントが喜んでもらえたかな」とか、家族や友人達の事を思いながら時を過ごす。


プレゼントと言えば先日、静岡の家からサプライズなお知らせを頂いた。


9月に他界した兄が「天皇陛下から従六位瑞宝双光章を授与されました」とのお知らせだ。



この叙位叙勲は「国及び地方公共団体の公務又は次の各号に掲げる公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を表彰する場合に授与する」とあるので、長年に校長先生や自治会長で苦労されて来た兄の受勲は嬉しい。





敬愛する兄の受勲を祝って、酒では無く静岡で頂いた掛川茶で乾杯しました。(お酒飲まないので)



ベガスのアパートにはろくな茶碗も置いて無いのでチョット申し訳無い気持ちですが、兄も天国で喜んでいると思います。


父もそうだったが実に公共の為によく尽くす人でした。

子供の頃はよく分からなかったが、父の葬儀で多くの人々が哀悼を捧げる姿を見て痛感しました。


4年程まえに帰郷した時に兄が「オヤジは仕事(農家)でも無いのに、区画整理や幹線道路計画などで随分と地域の為に尽力してくれたんだよ」と語っていた事を思い出します。


兄もコロナ禍の葬儀に関わらず、多くの友人や教え子が哀悼を捧げてくれました。


そんな兄に「国からのサプライズ クリスマス プレゼントの叙勲だったな」と天国の兄と茶を飲み酌み交わすクリスマスでした。

巨人の星

感動的なサッカーワールドカップも終わりましたね。


クロアチアが3位という事は、そのクロアチアと接戦だった日本チームの実力は大した物だと言う事だ。


日本の野球もサッカーも世界基準に達してますね。


先日アメリカンの友人と日本のスポーツアニメの話しとなった。

日本のアニメはアメリカでも大人気だが、私達の世代のマンガといったらスポ根アニメが多かった。


「巨人の星」の話をアメリカンの友人にしながら「コレって今ではちょっとヤバイ内容だよなぁ〜」と思った。


昭和の日本では違和感は無かったが、父親(星一徹)の夢を小学生の飛雄馬少年に押し付けているのは現代社会では違法である。


学校に行っても「大リーグ養成ギブス」なんて恐ろしい装置を着けているし


家に帰っても今は懐かしいウサギ飛びでど根性教育。



家庭事情はと言えば、稼ぎが無いのに父ちゃんは酒飲み。



気に食わないと「チャブ台返し」



コリャとんでもない親父だ。



明子姉ちゃんは可哀想に木の影で何時も泣いている。



都合が悪くなると外に出て「あの燦然と輝く巨人の星を見よ!」と言ってマインドコントロール。




コレをアメリカでやったら確実にポリス呼ばれますね。

アメリカでは親が大声で子供を怒っただけで、近所がチャイルド アビューズ(児童虐待)としてポリスを呼びます。

(めんどくさいのは日本人などは、子供のお尻に青アザ((蒙古斑)あるので虐待してると勘違いされるという。)


しかし子供の頃は何の矛盾も無く「巨人の星」見て感動してましたね。


私はあの世界も有りだと思うんだけどね。


昭和の魂は世の流れと共に消えてゆくのでしょうか。


アメリカンの友人は「変だけど好きでやっているならイイんじゃ無いのかな?」とのコメントでした。


しかし、そもそも何で「巨人の星」なんだい。

「野球の星」の方が他球団への配慮がありますよ。


私の実家の近くに草薙球場が有り、当時「大洋ホエールズ」のホームグラントだったが、大洋と言えば左門豊作。

まあ主役になれないキャラだ。



実家の前で選手が宿泊していたが、全く興味を示せなかった。

今思えば申し訳ない。(左門すまなかった)

コレも「巨人の星」による軽い洗脳に違いない。


まあ読売テレビだったからしょうがないかな。