母の愛情
「子供の将来の運命は、その母の努力によって定まる」
これはナポレオンの言葉である。
母の努力という面では、僕はずいぶんと母に苦労をかけた。
小学生の頃、一際勉強が出来ない僕は母が横に着いて勉強を教えてくれていた。
教えてくれたと言うより、集中力に欠けボ〜としている僕を宿題が終わるようスパルタ特訓していたと言った方がよいだろう。
猫背を治す為背中に物差し入れたり、余りにも酷いテストの点に激怒し、涙の勉強会などなど今思えば笑ちゃう懐かしい思い出だ。
元気な母だった。
先週末に兄から、90歳を超えた母の容態が芳しく無いとの知らせを受けた。
コーヒーを飲み過ぎた事もあり、土曜の夜は中々眠れず、母との思い出を寝ながら振り返っていた。
色んな思い出がある。
高校を卒業して東京に出てからも、何だかんだで母に心配ばかりかけて来た(挙げ句の果てにアメリカ定住)。
好き勝手に生きて来たが、人の道を外れず、本心に正直に生きて来れたのは、母の愛情と教育のお陰と思っている。
ひと時、兄夫婦が作ってくれた母の俳句集を手に取れば、日々の生活の中で母が感じた情景が浮かんで来る。
三十年の間に詠んだ二百を超える俳句の中には、僕に関する句も幾つかある。
帰省子を待つ 大き目の 夏布団
子は遠く 異国にありし 祭笛
遠き国へ 手紙を 出しに 十三夜
帰省子を 待つ軒下の つるし柿
初電話 地球の裏の 孫の声
海超えし 孫に 送れし 福の豆
海超えて 孫の便りや 福寿草
帰省子を送り 佇む 富士の雪
母がまだ歩けた頃は、近くの駅まで一緒に歩いて見送ってくれた。
「あんたも海外に住んでいるから、これが最後かもしれないし......」と言って電車が見えなくなるまで手を振っていた。
そんな時に詠んだ俳句だろうか。
兄が40代の母の写真を送って来てくれた。
まだ元気だった頃、母が孫娘に「遺影に使って」と何枚かの写真を頼んでいたらしい。
「母らしいな」と思った。
コロナ禍で昨年も帰省する事も出来ず、今年も外務省の海外向けホームページを読むと、コロナが終息しないと面会は難しい。
実に恨めしいウイルスである。
何とか帰省出来る状態になるまで、元気でいて欲しい。
折しも同じ時に、LINE上の同窓会で徴兵制のある韓国で、息子の入隊を見送る母達の会話があった。
息子を思う母達の深い心情にふれた。
「母の愛は海より深い」と思った。
我が母の 袖もち撫でて 我が故(から)に 泣きし心を 忘られぬかも。
「万葉集」物部乎刀良
(母が私の袖を持って 私の為に泣いてくれた その心が忘れられない。)
防人で、遠くに行く息子を案じて、息子の手を取って泣く母の姿を詠んだ歌だそうだ。
母と子の深い絆は万葉の頃から、国境を超えて変わらないものだ。