砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

光あるうち光の中を歩め。

友と言っても色々ある。


学友、悪友、朋友、戦友などであるが「信仰の友」と言うものある。


学生時代、教会で信仰の闘いを共にし、高め合った者達だ。

それは戦友に近いのかもしれない。


僕にもチョット変わった戦友がいる。

彼女は僕には無い視点で教会のアクテビティをよく支えてくれた才女だった。



しかし、大学を卒業して僕は渡米すると住所を点々としてたし、連絡取る事なく長い年月が過ぎていった。


やがて彼女は信仰の道とは違う道を選んだとの風の噂を聞いた。

残念だった。


10年程過ぎた頃であろうか彼女の夢を見た。


僕が夜、2階で講義をしていると、外の路地の電柱のの下で、一人の男性と一緒に2階をじっと見つめているのだった。


気になって日本にいる友人に頼んで、何とか所在を調べてもらい、手紙を送ると1か月ぐらい後に返信があった。


手紙には彼女の受けた信仰と現実との闘い、自分の弱さ、様々な試練の後に福島の実家に帰り、親の勧めでお見合い結婚をした事。


経済的にも恵まれて何の不自由も無い生活だったが、何か心に空いた穴があり満たされず、涙ながらに夫に全てを話し教会に通い始めた事などが書かれてあった。

旦那さんも非常に理解にある方で、色々と協力して下さったようだ。


突然送られた僕の手紙にも驚いていた。


そんな彼女が好きだったトルストイの「光あるうち光の中を歩め」の話しを思い出して書いて送った。



まだ迫害が多い原始キリスト教の時代の話だ。


富も名誉も手にしたユリウスだったが、やがて心に空虚を覚え、悪い噂があるキリスト教徒になった友人パンフィリウスの元に行こうとする。

しかしなんだかんだと起こる障害と心の弱さで行くことはなかった。

 

やがて、全てを失い年老いたユリウスは、長い迷いの末にやっと信仰の道に入る事を決意する。


しかし年老いた彼は全ては遅過ぎたと悔やむ。


落ち込むユリウスにある老人が、これまでの放蕩も全てが真実に目覚める為に彼には必要な事だっだったと諭します。


そう、人生に決して遅過ぎる事なんて無い。


この話は彼女が良く教会の後輩を励ます時に使っていた内容でした。

横で聞いていた彼女の話しを僕が感動して覚えていたのです。


「よく覚えてますね〜」と驚いていたが、正に彼女に伝えたかった内容そのものだった。

「遅過ぎる事なんて無い、全てに時があり意味がある」と。


かつての戦友、信仰の友とのメールは楽しく嬉しいものだった。


それ以来、時たま手紙を送ってます。


長く子供に恵まれなかったようだが40近くで一人息子を得て、幸せそうな彼女の手紙から信仰の友の幸せを心からから嬉しく感じた。


確実に幸福な人となる ただ一つの道は人を愛する事だ。

       トルストイ

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