砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

タンポポの咲く道

昨夜、兄からメッセンジャーで叔父が他界されたとの知らせを受けた。


本家の近くで養鶏場を営んでいた叔父で93歳であった。

「福ちゃん」と呼んで親しんでいた。


叔父達の中でも寡黙であり良く働く人という印象が残っている。

実は私が幼少の時に兄が喘息で大変だったので、この福ちゃんの家に預かって頂いていた。


幼稚園前の時期なので記憶は断片的だが、母がよく「あんたは福ちゃんの家で預かってもらって良くしてもらってたんだよ」と言われていたのを覚えている。


重い記憶の扉を開いて行くと、確かに福ちゃんの娘さん達と良く遊んでいた。

男三人兄弟だったので、福ちゃんの家に行くと妹達がいる様な感じになったのだろう。


養鶏場だったので卵が孵化してヒヨコになる生命の神秘を目の当たりにしたり、首が切られても走って行く鶏も怖かったが、家の裏の柿木に吊るされて血抜きされている鶏は子供の心には色々と刺激的でした。


家から歩いて15分ぐらいの所であったが、ここに行く道が何時もワクワク楽しかった。


福ちゃんは太平洋戦争末期、学徒出陣で「蛸壺隊」として戦争に駆り出される寸前で終戦を迎えたそうだ。


蛸壺隊は沖縄戦でも使われた戦法で、蛸壺の様な穴を掘ってそこに爆弾背負って潜み、アメリカの戦車が来たら肉弾突撃する特攻です。


青春時代が戦争と共にあった世代は、私達の世代では想像出来ない辛いものがあったと思う。


寡黙な叔父であったが、家の近くを走る東海道線の列車の衝突事故を防ぐため、身を挺して危険を知らせ事故を防いだと言う勇敢な一面を持っていた。

子供心に「カッコいいな〜」と思っていた。


私が大きくなってからは遊びに行くこともなくなってしまったが、叔父の中で唯一油絵を描くなど私と同じ趣味を持っていた。


私が渡米してから1997年の夏に一度挨拶に行った事がある。

大変喜んで迎えてくれた。私の家族写真などを見せて元気に暮らしている事を伝えると嬉しそうに聞いてくれていた。


訃報を聞いて頭に浮かんだのは、何故か福ちゃんの家に行くタンポポ咲くあぜ道だった。


子供心に福ちゃんの家への道を歩くのが春の様な楽しい思い出だったのだろう。


天寿を全うした福ちゃんの世代は日本の戦後復興を果たした激動の時代であるが、その土台の上に今がある事をしみじみと思いに耽った。


兄が送ってくれた写真を見ると、何となく自分と似ている様な感じもした。

(ちなみに横に写っている小僧は、多分私かな?)

心から冥福をお祈りします。

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