仮面の告白
YouTube を流し見していたらオレラジの中田敦彦が三島由紀夫の「仮面の告白」を解説していた。
「男と美と死」をテーマにした解説は面白かった。
確か高校か大学の時に読んだ記憶はあるが全然覚えてませんでした。
と言うより文章理解能力が無く、よく分からんかったのかもしれない。
しかし「仮面の告白」という題名に妙に惹かれて手に入れたのだった。
当時のオジサンは自分の素顔がよく分からなかった。
言い換えれば自分が何者なのか分からなかったわけだ。
未熟な自分が傷付かない為に仮面を被って守っていたのだ。
しかし、自分を見失うと仮面が何時の間にか素顔に取って変わられてしまう様な不安にかられた時もあった。
本の内容とは全く関係無いが「仮面の告白」という題名に、そんな未熟な若者が興味を持った理由だ。
青年期は蝶になる前のサナギの様な時期である。
厚いサナギの殻の中はドロドロのカオス(混沌)だ。
しかし、成長の努力を怠らなければ、時間と共に蝶として飛立つのに必要なものが形成されて行く。
オジサンにとっての仮面はそうしたサナギの殻だったのかもしれないと最近は思う。
この本の主人公は三島由紀夫自身であるが、彼は生まれた時の光景を覚えていると言う。
午後9時に生まれたにもかかわらず、産湯のタライのふちに射していた日の光を見ていたと言うのだ。
この本を読んだ時、オジサンはこの部分に大変興味を持った。
実はオジサンも自分が生まれた情景の記憶があるからだ。
湯気がたつ産湯とタライ、産婆さんの顔も覚えているし、生まれた納戸の畳と外の庭などが全て輝いていたのも覚えている。
この記憶の鮮明さでは三島由紀夫に勝っている。
記憶の鮮明さは今でも衰えていないが、この事を中学校の時に話して以来、奇人変人の部類に入れられてしまった。
「目も開いていないのに何で見えたんだ」ともっとな質問をされてしまうのがおちである。
しかし、「仮面の告白」のこの下り、すなわち三島由紀夫も同じ経験をしていると知って、大変嬉しかった。
「何故そんな事がありえようか!」と思うでしょうが、オジサンの理解はこうである。
その情景を見ていたのは私自身では無く、守護霊、背後霊であったと思う。
或いはオジサン自身の魂の目だったのか。
証明は出来ませんが、オジサンが生まれた時に見つめていた霊的な記憶だとすれば納得する。
ともあれ「仮面の告白」の解説を聴きながら、そんな事を思い出しました。
さて、むかしオジサンが一生懸命背伸びして被っていたアノ仮面は、今どこにあるのでしょう。