砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

「恨みの構造」

最近、とある若者との会話で気づいた事がある。

過去に恨みがあると、なかなか前に進めない。

「過去に囚われ、未来志向が出来ない」のだ。


「信じていた人に裏切られた。」

「会社や組織に裏切られた。」

「家族に愛されなかった」

など恨みの要因は現代社会にゴロゴロ転がっている。


外的な勉強や仕事は出来ても、内的精神面では殻に閉じ籠った様に傷つく事を怖れるのである。


東大大学院(教育学部)のレポートに「恨みの構造」が書かれてあった。


この図にある様に「恨み」と「甘え」は表裏一体であるそうだ。


ちなみに「甘え」は英語に翻訳出来ない日本語の一つです。

だからこの「甘え」の概念を若者に伝え難い。


「聖書」では人類最初の殺人がカインとアベルの兄弟間で行われたと書いてある。



この殺人の動機も神に供物を受け取られた弟に対する恨み嫉妬である。


さてこの東大のレポートには結論として解決の道は、恨みの対象に対する「許し」とある。


オジサンだって長く生きて来たので「恨み」の一つや二つはある。

しかし、自分の立場では無く相手の立場、更にはもっと高い視点、神様の視点から見れば「仕方なかったんだな〜」と許す心も湧いてくる。


そこにエゴに打ち勝った心の成長もある。


しかし、この「許す心の力」を得るためには「自分の中の甘え」と闘わなければならない。


これは難しい事で、理論的に理解出来ても恨みの鎖は簡単には解けるものでは無い。


人に言われてでは無く、本人が悟る必要がある。


その環境を整え、本人が本心の声を聞ける人間的成長が必要だ。


謙虚に感謝する心が弱いと、他の責任に転化し、本心に立ちかえらない。


このレポートを見ながら今の韓国の政権もこの「恨みと甘えの構造」の中にあるのでは無いかと思った。


あの日本対する恨みを学校教育に持ち込むのはやめた方が良い。

クリスチャンの多い韓国だからキリストの「許しの愛」が浸透する事を望むのだが.......。


さて、恨みは近い関係で起こりやすい。

韓国の愛憎ドラマの様に夫婦間、親子間、兄弟間、親友などなど愛のもつれが恨み憎しみと姿を変え行く。


「可愛さ余って憎さ百倍」と言うわけだな。


過去の恨みから解放するには、「如何に苦しい中でも、自分が愛されて来た事に気付き、

他を批判するのでは無く、自分の甘えを悟って未来を見つめろ」と若者に伝えたいと思っている。


伝わるかどうかは分からないが。


恨み無い世の中にしたいものです。

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