砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

「おぎん」

最近YouTube で芥川龍之介の作品の朗読を聞いている。
夕食を作っている時や、ボーとしてる時に聞けるので便利だ。


「蜘蛛の糸」「杜子春」の様な児童向けの作品は良く覚えている。
「鼻」「羅生門」「藪の中」なども有名なので覚えていた。


「芋粥」「地獄変」は昔読んだかな〜と言う感じだ。


「おぎん」に関してはいつ読んだのか思い出せないが、不思議に記憶残っている。


あらすじはこんな感じである。


江戸時代の話である。長崎の山里におぎんという少女が住んでいた。
仏教徒の父母が死んでしまい孤児となったおぎんを、じょあん孫七とじょあんなおすみ夫婦は養女とし、洗礼名をマリアとした。
隠れキリシタンとして断食や祈祷をしつつ、平凡で幸福な生活を送っていた。


しかし或るクリスマスの夜、悪魔が役人とともに孫七の家にやってきて、三人を投獄し、棄教するように責めた。
それでも三人は信仰を守り、もうすぐ天国へ行けると辛抱した。


やがて刑場にて衆人の見守る中、火あぶりの刑が行われようとしていた。
それでも信仰を捨てなかった3人だが、丘にある父母が眠る松の木を見ていたおぎんが信仰を捨てると言い出したのである。
「死んだ両親は基督教を知らず、今頃は地獄に落ちているのに自分だけ天国へ行くのは申し訳ない。両親と共に地獄へ堕ちたい」とのことだった。


すると妻のおすみが「天国へ行きたいとは思わない。ただしあなたのお供をしたい」と言いだした。即ち、信仰は捨てるが、夫婦の絆を重んじて共に死ぬということだ。


二人の言葉を聞いた孫七は、心の中で天使と悪魔が葛藤していたが、人間の心に溢れたおぎんの泣き顔を見ると、ともに地獄へ堕ちる覚悟を決めたのだった。


三人の棄教はキリシタン受難の中でも最も恥ずべき躓きとして後代に伝えられ、悪魔は大歓喜で刑場を飛んでいたという。
しかしそう無性に喜ぶほど悪魔の大成功だったかは、作者は甚だ懐疑的であると結んでいる。


自分だけが天国に行くより、父母と共であれば地獄へも行く。

おぎんの中で孝の精神が勝ったわけである。

おぎんを読みながら「杜子春」の結末を思い出した。


杜子春は仙人になる修行で決して声を出してはならないが、鬼にムチ打たれる父母の姿に地獄に落とされても声を出さなかった杜子春は思わず「お母さん」と声を出してしまう。


全ては幻であったが、最後に彼はやっと人間らしい暮らしを悟る。


この作品も孝行心の大切さを教えたものである。


日本にキリスト教が浸透しなかった要因の一つに、自分の幸福(救い)より忠孝を重んじるカルチャーがあったからかもしれない。


確かにキリスト教徒を含め宗教者の中には間違った選民意識が生まれ「自分達のみが救われ、後は地獄行き」という宗教的エゴイズムが臭う時がある。


自分だけ天国に行っても親兄弟が地獄であれば、やはり心は苦しいであろう。


当時は仏教も悪魔の教えと信じていたキリシタンであったが、父母を慕い、家族を愛したおぎん達が、果たして地獄に落ち、悪魔が喜んだかはオジサンも懐疑的である。


きっと地獄に落ちてもお釈迦様が「蜘蛛の糸」を極楽の蓮の池から垂らして下さるのではないだろうか。


孝行心も強いおぎん家族だったらカンダタのようにエゴの為に、その糸が切れる事も無いでしょうね。


聖人の教えの本質は「為に生きる愛」であるのだから。

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