砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

「人生の踏絵」

メモリアル ディーはロサンゼルスで過ごした。

今回は飛行機だったので、少し気が楽だった。


空港の待ち時間や飛行機の中では本を読む事にしているが、今回手に取ったのは遠藤周作氏の「人生の踏絵」



この本は遠藤周作氏の講演録ですが、名著「沈黙」が書かれたキッカケが書かれていた。


氏が長崎をぶらぶらしていた時、十六番館と言う資料館の中で踏絵を見つけたそうだ。


踏絵はキリストが描かれた銅版が木板にはめられた物ですが、その木の枠にペタッと黒ずんた足指の跡がついていた。

1人ではつかないだろうから何百人、何千人が踏んでついたのかも知れないが「あの脂っぽい足指の跡はどんな人のだろう。誰が踏んだんだろう。どんな気持ちで踏んだんだろう」と思いがわいて調べ始めたのが小説「沈黙」を書き始めたキッカケだそうです。


「沈黙」の主人公ロドリゴは宣教師ジュゼッペ キアラ神父がモデルですが、日本宣教の苦難と迫害、そして殉教は映画化された「沈黙」の中でも克明に描かれていました。




キアラ神父の墓は調布の神学校の庭にあるそうです。

遠藤氏もこの墓を訪ねて「なぜ司祭が踏絵を踏んだのか?」を思い巡らせ小説を作っていったのでしょう。





遠藤周作氏の講演の中でこんなセンテンスがありました。

「私たち一人ひとりにも「時代の踏絵」「生活の踏絵」「人生の踏絵」がある」

「多かれ少なかれ、自分の踏絵という物を持って生きてきたはずです。...その自分の踏絵を踏んで行かないと生きて行けない場合がある。...」


私もチョット考えさせられました。


「私の人生の踏絵って何だろう?」って。


踏んではいけない大切な物、神聖なものとは???


そしてそれを踏ませようとする圧力、さらには踏絵を踏まなければ生きてない不条理。


さて、今日会社でおもむろに遠藤周作「人生の踏絵」の本をバックから出したら、隣の新入社員が「お〜随分とお硬い本読んでますね〜」と言う。


「いや、狐狸庵先生の部分も出てるから面白いよ」と答えた。

兄が一時期遠藤周作氏の「狐狸庵先生シリーズ」をよく読んでいたので、私も読み終わった本を借りて読んでいた。


ついでに彼に「君にとっての人生の踏絵ってなに?」って何気無く聞いてみた。


「え!僕の場合の踏絵はほとんど妻に出されますね。でも「踏絵」では無くって「地雷」ですね」と返ってきた。

さすが阪大出身、頭が回る。


彼が「人生の地雷」を踏まない事を祈ろう。


私自身にとっての「人生の踏絵」は何であり、それを踏んで生きるか踏まないかは、もう少しじっくりと考える時間が必要と思いました。

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