砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

「父の日」に思う。

ベガスの教会の礼拝に参加していたら、ロスにいる2人の息子達から「Happy Fathers day 」のメッセージが届いた。

Mother’s day に比べると少しマイナーだが嬉しかった。


一人ベガスなので,せっかくの「父の日」と言う事で、父に思いを馳せて「父との思い出の日」としてみました。


30年前に他界した父は今から思えば不器用ながらも愛情豊かな人でした。


「地震、雷、火事、親父」と言われる様に農家の家長は怖い存在です。


夜酔っ払って帰宅する物音が聞こえると、「帰ってきたぞ〜」とう言う兄の合図で兄弟3人見ていたテレビを消し、電気を消して布団に潜り込んだものです。


オジサンは勉強がかなり調子が悪く、親から見てもなかなか褒める所が見つから無いので、良く畑仕事や風呂の薪割りなどを手伝いました。


中学の時、畑仕事のご褒美で私一人を今は潰れて無い狐ヶ崎遊園地に連れて行ってくれた事があります。


人がまばらな遊園地で一人メリーゴーランドやコヒーカップに乗って遊んでもさほど面白くは無いものです。


遊園地の乗物からチラチラと父を見ると売店前の椅子で仏頂面でコーヒー(ビールだったかな?)飲みながらタバコをふかして待ってた父が印象に残ってます。

あまり言葉で表現するのが苦手なタイプながらも不器用な優しさを思い出します。


大学受験で落ちまくり浪人決定となり、夕方にトボトボ東京から田舎の家に帰えった時ですが、家の玄関を開けるのは心重かったデス。


申し訳無いやら情け無いやら、思い切って玄関の戸を開けると「おお〜帰って来た、帰って来た!」と笑顔で父が出迎えてくれたのにはビックリしました。


あまり子供には笑顔や感情を見せない父です。

しかし、東京からの電話の声で受験を苦に失踪でもするかと思ったのでしょう。

かなり無理をした笑顔だったと思いましたが、そこが本当に暖かく有り難かったデス。


大学生になって進路の事で父とブツかった事もありました。

大学生ともなれば変に知恵がついてアアダコウダと理屈を付けて親の言う事を素直に聞かないものです。


随分こじれた話となり、最後に父は涙を流しながら言いました。

「俺は学が無いので、お前の言っている事が正しいかどうか分からない。

しかし、これだけは言える。『死んだ人間だけには成るな!』」


初めて見る父の涙でした。

『死んだ人間』とは肉体では生きているが、心は死んでいると言う意味です。


突然飛び出したこの哲学的な言葉は今もオジサンの心にあります。


父は家では無口で怖い存在でしたが、外では社交的で明るい性格でした。


地域の役員や集会なども頼まれれは何でも引き受ける人でした。

静岡市の駿河区と清水区を結ぶ南幹線(バイパス)を作る都市計画でも、地域の人達を説得して回り区画整理に奮闘していました。

クモ膜下出血で倒れるまでは、生き生きと「為に生きる」父でした。


闘病生活も母の介護で私の結婚式には参加できるまで回復し、出来の悪かった私の結婚式で子供の様にはしゃぐ父の姿がビデオに残ってます。


父の葬式では町内を始め地域から500程の人達が集まり、お別れをしました。


「心の死んだ人間に成るな!」(生ける屍と成るな!)と言うメッセージは、父自身が「心が生きた人間であり続けようと」と努力したんだろうと思います。


で無ければ、あんなに多くの参列者は集まらなかったでしょう。


オジサンは死後の世界、霊(魂)の不滅を確信していますが、いずれ彼方で会ったら何だかんだ話してみたいと楽しみにしてます。


今でもオジサンの「心に生きる父」との思い出に浸りながら、息子達に残せるメッセージを計画する「父の日」でした。

(言葉の様で言葉では無いのだろうがね)


ちなみににオジサンは父の事は天下のお百姓さんらしく「お父ちゃん」と呼んでましたが。

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