昭和の思い出。
我が社のボスが60を迎えて頭を金髪に染めました。
還暦の心境の変化と言うものだろうか。
私も随分と白髪が増えたので、67を迎えたら銀髪に染めて、金と銀でバランスを取ろうかと思っています。
そんな還暦の気の迷いか断捨離なのか、ボスの家にあった「男はつらいよ」の全48シリーズのポスターを会社に持って来た。
1968年の第一作目からのポスターがある。
55年も前の映画だったんですね。
皆さん若い。
知らない人や、懐かしい人などの様々なマドンナ。
「何でそんなの持ってんの?」と聞いたら、寺男源吉こと鈴木蛾次郎さんの友人の友人から貰ったとの事。
持っていても仕方ないので、昭和風の居酒屋を経営している近くの友人(元社員)にあげる事にしたそうだ。
一枚一枚めくっていると、昭和の香りがプンプンするなぁ〜。
おのずと昭和のよもやま話となり「プロレスはどこまでがショーだったのか⁉︎」で盛り上がる。
新潟出身の同僚が、三条実業高校出身の先輩であるジャイアント馬場さんの話しをしてくれた。
地元でジャイアント馬場と黒い呪術士アブドラ ザ ブッチャーとの試合があったそうだ。
悪役レスラーとして人気を博したブッチャーはアフリカの出身という事だったが、実はアメリカ ミシシッピ州出身。
毒針エルボーや地獄突き、いつも試合は流血の惨事。
なぜに毎回フォークなどの凶器も持ってリングに上がる事が出来るのか不思議でしたね。
同僚が言うには昔、新潟での試合会場に時間より随分早く着いてしまい、会場の後ろの方に行ったらジャイアント馬場とブッチャーが仲良くキャッチボールをしていたそうだ。
しかしその日の試合もブーチャがフォーク持ち出して血みどろの試合。
アレは何だったんだ〜とミステリーな記憶として残っているそうだ。
あの血は本物だったのか⁉︎
今も残る昭和の未解決な記憶である。
あの頃はプロレスはお茶の間の人気番組の一つでした。
お婆ちゃんも「オトマシー!」と繰り返しながら見てました。
「オトマシー」は見苦しい、酷い身なりをさす静岡弁です。
手で顔を覆いながら、指の隙間からシッカリ見てました。
暇さえあれば兄弟でプロレスゴッコしてましたね。
と言ってもほとんど兄の技の実験台。
4の字固め、猪木のコブラツイストの変形技「青大将盆踊り」なる技をかけられていました。
しかし技のかけ過ぎで、兄に腕の骨を折られたのもその頃でした😅
ちなみに黒い魔神ボボ ブラジルもアメリカ アーカンソー州出身。
てっきりプラジル代表かと思ってました。
いま思えば何か危険で曖昧な面白さが多かった昭和の時代でした。
そんな事を振り返る1日でした。