砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

奪う愛と与える愛。

有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」はトルストイの「愛は惜しみなく与う」の逆説的表現である。


当時なぜ彼女が卒論に有島武郎を選んだかは思い出せない。
何しろ40年ほど前の話である。
しかし、文学部の卒論締切2週間前に泣きつかれた時は驚いた。


確かオジサンは6日間で何冊かの有島の本を急いで読んで3日ぐらいでノートに原案を書き、後の2日ほどで彼女が原稿用紙に正書した。
しかし、前日の夜にまだ三分の一の正書が終わってないとわめくので、友人4人を呼び徹夜で書き写して提出したと言うムチャクチャな思い出がある。


卒論の字体がページによって違うので教授も変に思っただろう。
それでも「優」をもらえたのは嬉しかった。(うちの大学は文学部だけは優秀)


本当に困った奴(女子)ではあったが、おかげで有島武郎と内村鑑三翁を深く勉強させて頂いた。


何故に内村鑑三をして彼の新しいキリスト教運動の後継者とまで言わせ期待された有島武郎が、棄教しキリスト教の本質である与える愛(アガペー)の理論を捻じ曲げて奪う愛(エロス)の正当化を試みたのかを深く考えさせられた。


有島は「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本質は惜しみなく奪うものだ。」と言っている。
現実は確かにそうかもしれない。


しかし、信仰の道は自分の奪う愛(エゴ、エロス)を悔い改め、与える愛(アガペー)の実践を通じて人格形成とする修行の道である。


人間には本来の神の子としての神性があり,エゴとの葛藤の中で本心(良心)の声に忠実に生き、神性を取り戻してゆく道である。
(自己再創造の道と言っても良い。)


明治という西洋文明が日本を変えていった時代、キリスト教的なものがハイカラでハイセンスであったに違いない。
しかし、キリスト教文化に浸れども、それだけでは自己変革、宗教的悟りにまで到達することは出来ない。
内村鑑三という真なるキリスト者を師として大きな尊敬と影響を受けて入信したが、彼は自らの罪との戦いがら逃げた。


内村は彼の棄教を嘆き、「万朝報」の中で「背教者としての有島武郎氏 」(大正12年(1923年)7月19、20、21日)として語っている
                             
「その時の私達友人一同の悲しみは非常であった。私は今日に至るまで、多数の背教の実例に接したが、有島君のそれは、最も悲しいものであった。」


内村鑑三は有島が埋めることが出来ない空虚を抱えながら彷徨っていると見抜いた。


◎ 有島君に大きな苦悶(くもん)があった。この苦悶があったからこそ彼は自殺したのである。そしてこの苦悶は、一婦人の愛を得ようと欲する苦悶ではなかった。これは哲学者の称する、コスミックソロー(宇宙の苦悶)であった。


有島君の棄教の結果として、彼の心中深い所に大きな空虚が出来た。彼はこの空虚を充たそうと苦心した。彼は神に依らず、キリストその他のいわゆる神の人に依らずに、自分の力でこの空虚を充たそうとした。


これが彼の苦悶が存した所、彼の奮闘努力はここに在ったと思う。しかしながら、有島君が如何に偉大であっても、自分の力でこの空虚を充たすことは出来なかった。それだけではない。充たそうと努めれば努めるほど、この空虚が広くなった。


彼は種々の手段を試みた。著作を試みた。共産主義を試みた。そして多くの人、殊に多くの青年男女の渇仰(かつぎょう)を得て、幾分なりともこの空虚を充たし得たと思ったであろう。


しかしながら、彼は人の賞賛ぐらいで満足できる人ではなかった。彼は社会に名を揚げて、ますます孤独寂寥の人となった。彼は終(つい)に人生を憎むに至った。


神に降参する砕けた心は無かった。ゆえに彼は、神に戦いを挑んだ。死を以て、彼の絶対的独立を維持しようと思った。自殺は有島君が近来しばしば考えた事であろう。ただしその機会が無かったのである。



◎ そしてその機会が、終(つい)に到来した。一人の若い婦人が、彼に彼女の愛を献げた。著作においても、社会事業においても、内なる空虚を充たす材料を発見できなかった有島君は、この婦人の愛に、偽りのない光を認めた。


彼は喜んだ。満足した。これは棄教以来初めて彼に臨んだ光であった。実(まこと)に小さな光であったが、永い間暗黒の中を彷徨していた彼にとっては、最も歓迎すべき光であった。彼は既に人生を忌(い)んでいた者、そして婦人は夫ある身であった。


この光は逸することが出来ない。だからと言って、この世においてこれをエンジョイすることは出来ない。ゆえに二人相並んで、自ら死に就いたのである。正直な有島君としては、しそうな事である。しかし、彼は大いに誤ったのである。


最後に
有島君は神に背いて、国と家と友人に背き、多くの人を迷わせ、常倫破壊の罪を犯して死ぬことを余儀なくされた。


私は有島君の旧い友人の一人として、彼の最後の行為を怒らざるを得ない。
と結んでいる。
(旅人さんの内村鑑三全集サイトからhttps://green.ap.teacup.com/lifework/2056.html


オジサンは誰もがこのコスミックソローや空虚を抱えながら生きていると思う。


これを何で埋めるかは個人の自由ではあるが、本心(良心)の羅針盤が示す道を選ぶべきだろう。


1928年(大正12年)6月9日、有島と波多野秋子は長野県軽井沢の別荘(浄月荘)で不倫の果てに縊死を遂げた。7月7日に別荘の管理人により発見されるが、梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおりウジ虫が天井まで這い上がり別荘の外まで溢れていたという。


こういう死に方だけは御免だな。後片づけが大変で他人に迷惑かけるしね。

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