砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

クリスマス

クリスマスでロスに帰って来ている。


クリスマスの朝はなぜか家族礼拝となった。
イエス様の誕生日なので主イエスが喜ばれるプレゼントは何かと思い、聖書の「山上の垂訓」(マタイ伝)を息子達と訓読した。


「心貧し者達、悲しんでいる者達、柔和な者達、義に飢え渇いている者達、憐れみ深い者達、心清き者達、平和を作り出す者達、義の為に迫害されて来た者達、は幸いなり」と語られている。
自己中心に生きていれば、自分の心が貧しい事にも気付け無いし、人の悲しみを悲しむ事も出来ない。
正義に生きる事に努力してなければ、義に渇き、迫害される事もないだろう。


学生時代、神様がいるなら実感してみたいと思い、1ヶ月ぐらい牧師さんや先輩に「どうしたら神様と出会う事が出来るのか⁉︎」と尋ね求めた時があった。
なかなかピント来る答えは得ずにいたが、ある日何気なしに聖書をパラリと開いて見たら、この「心清き者達は幸いなり、彼らは神を見るだろう」の聖句が目に止まった。


「心清くならなければ、清き神は見れない」と深く悟り、涙が止まらなかった。


そんな昔話をしながら「清く生きる事、他の悲しみを悲しむ事が出来る心、義に生きる事」を伝えた。


息子達がどのくらい理解したか否かはわからないが、クリスマスに家族で聖書を読んだのは良かったかな。


近年、本当のイエスの誕生日は秋だったであろうと言われている。


羊飼いは冬の夜に羊を野に放さないし、天文学学者はベツレヘムの星(見たことの無いような星)を木星と土星が異常接近した紀元前7年9月15日とする説もある。


しかし、一年の終わりに家族で集まることができる休日があるのは有難い。


昨夜はささやかながらケーキを囲み、本当にささやかなプレゼントをあげたり、トランプで遊んだり出来た(賞金は長男がかっさらった)。


今年も後少しだが、全てに平安があり、悲しんでいる人がいたら癒されることを祈るクリスマスであった。


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