砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

久能山東照宮

日本平に行ったなら久能山東照宮に行かない手はない。

今は日本平からロープウェイで行けるので楽ちんだ。


小学生の遠足で来た以来だが、海岸側から地獄の階段を登った記憶がある。



1159段なので「いちいちごくろうさん」とも呼ばれるそうだ。


遺言により徳川家康の遺体を最初に埋葬された地でもあり、その後に日光東照宮に移る。



武田信玄の支配下の城だった時もあったので、軍師山本勘助の掘った「勘助井戸」があった事は小学生の記憶として覚えていた。


確か「おい、井戸に石を入れるな!勘助さんに怒られるぞ!」と先生に叱られたので覚えている。


当時は勘助さんと言う人が近くで見張っているのだと勘違いしていた。


当時の技術と芸術が凝縮された社殿は国宝に指定されただけあって荘厳である。



詳しい事はネットで検索出来るので書くのは控えておいて、僕がヘ〜と思ったのがガンダムなどのプラモデルが奉納されていた事だった。



なんだこりゃ〜と思い、説明書を読んでん見ると。


当時この東照宮造営に際して、全国から優秀な職人が集められました。彼らは完成後も静岡に残ったそうで、雛人形、木工細工などに携わり技術を磨いたそうです。

その技術が昭和になってタミヤ、ハセガワ、フジミ模型などの世界的模型メーカーに発展したそうです。




確かにガンダムで有名なバンダイの工場も近くにありますね。


400年経っても技術が受け継がれた事に感銘しました。



また続ます。

日本平

アメリカに帰って来て毎日が忙しくて、時差ボケする暇も無い。

「元々ボケてるから時差ボケも緩和されるのでは⁉︎」なんてかわゆく無い事を言う奴もいる。


仕事を始めるとまた携帯電話の奴隷化生活に戻った気がする。


「お客様満足度ナンバー1」を目指す営業マンとすれば、お客の電話を無視出来ないのも営業のサガである。


そんな生活から比べれば、日本にいた2週間は携帯電話からの解放自由の平安な日々であったとしみじみ思う。


兄の葬儀もあり前半は緊張だったが、それ以降の日々を少しブログしておこうと思う。


故郷静岡では1日だけ観光地に行った、日本平だ。


日本武尊(ヤマトタケル)が草薙の剣で賊を平定した後、ここにから四方を眺め大和平(日本平)と呼んだと言う。



確かにここからの風景は美しい。


富士山や伊豆半島が駿河湾越に見える名勝の地だ。



日本武尊もこの景観にさぞかし唸ったであろう。


小学生の頃に麓から頂上まで競争して走る断郊競歩なるプログラムがあり、頂上に立つとあの時の汗だくの苦しい体験を思い出す。


しかしココから見た富士は、そんな疲れをも吹き飛ばしてくれる力があった。


あの頃は何にもなかった頂上も、最近は「日本平夢テラス」なども出来てスッカリ変わってしまった。



「風景美術館」の名を持つ日本平ホテルでランチを食べたが、美しい景色を見ながらの食事は美味しさを増してくれる。



コレには奥さんも喜んでくれた。




残念ながら私達が行った時は雲で富士山を見る事は出来なかったが、砂漠の町ラスベガスには無い青い海と優しい緑に癒されました。

またブログを再開してみました。

2週間余りの日本への帰国を終えて砂漠の町にまた帰って来た。


今回は母の一周忌の為に帰ったのだが、病状が悪化した兄が息を引き取り、葬儀となってしまった。


校長先生を歴任し自治会長をしていた事もあり、コロナ禍にもかかわらず300人程の人達が参列して下さった。

兄の人徳と人望の厚さを深く感じました。


私にとっても偉大な兄が他界した事は残念でなりません。


そんな事があったので、お葬式以降はむかし家族を連れて帰省した時に、兄が連れて行ってくれた思い出のある日本平に立ち寄り、横浜で旧友達に会ったぐらいで帰って来た。



ブログは兄が良く読んでくれていたので、兄が他界するとなかなか再開するのにも力が入らない所もある。


しかし「流れて行く時の中で、自分の感じた世界を文字として書く事は大切かな」とフッと感じて、またブログを始めてみました。


日本にいた期間はずっと奥様と一緒だったが、また砂漠の街の単身赴任生活に戻ると、長い夜は何かをして無いと寂しいものです。


ちなみに「息を引き取る」と言うのは仏教用語で、残された者達が、亡くなった人の息を引き継ぎ、命をつないで行くと言う意味らしい。


兄の家族がその思いと命を引き継いで、幸せになってくれる事を兄も望んでいると思う。