天草は養殖漁業が盛んで、ハマチや本マグロの養殖場を視察させて頂いた。
海からの帰り道に漁村の中に、突然とゴシック式の教会が見えた。
思わず写真を撮る私に、業社の社長さんが「見て行きますか?」と聞いてくださったので、お言葉に甘えて1時間ほど見学させて頂いた。
「海の天主堂」と呼ばれる崎津教会だった。
中に入ると礼拝堂が畳敷きであるのに驚いた。
説明書を読むとこの漁村は1638年の禁教令以降、2世紀を超えて「潜伏キリシタン」として信仰を守って来た人達の集落でした。
この教会は昭和6年にフランス人宣教師のハルブ神父によって再建されたそうです。
建てられた場所はハブル神父の強い希望で、宗教弾圧の象徴であった「踏絵」が行われた庄屋屋敷跡でした。
多くの信者を苦しめ迫害した「踏絵」場の上に現在の祭壇が配置されたと言わているそうです。
彼らの信仰の強さに畏敬の念を抱きました。
遠藤周作氏の「沈黙」で描かれた惨劇がこの静かな漁村にもあったかと思うと祈らざるをえませんでした。
200年を超える(正確には240年)の国家的宗教弾圧の中でも、信徒達は知恵を出し合いながら信仰を守って来たそうです。
例えば集落の山側の「崎津諏訪神社」は禁教中、信徒は氏子となって密かに祈りを捧げたり、仏教徒を装いながらも参拝時は「アーメン デウス」と祈っていたと言われてます。
たとえ「踏絵」も信徒達は形の上では苦渋の思いで踏んだとしても、内心の信仰は失う事なく代々粘り強く繋いできたのでしょう。
小説「沈黙」の主人公ロドリゴ神父も拷問で苦しむ信者を救う為に「踏絵」を決意しますね。
すり減った銅板に刻まれたイエス様の顔を痛みを耐えながら踏もうとすると、踏絵のイエスは長い沈黙を破り始めて語りかけます。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番知っている。踏むがいい、私はお前達に踏まれる為にこの世に生まれ、お前達の痛さを分つため十字架を背負ったのだ」
とイエスが神父に語りかける場面があります。
すり減った「踏絵」は多くの信者の涙と血を流させた理不尽な宗教弾圧の象徴として、今も僅かながら現存しているそうです。
「沈黙」を改めて読んでみて「そんなドラマがあの崎津集落でもあったのかな」と写真を見ながら思い起こしました。
この集落は2018年に潜伏キリシタン関連遺産として「世界遺産登録」が決定したそうです。
この世界の小さな片隅の彼らの不屈の信仰が、長い年月を超えて世界に知られる事を願います。
もし機会があればもう一度足を運んでみたいですね。