砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

ナバホの友

University of New Mexico に行っていたのは28歳の時だから33年前だ。
1週間前に食べた物も思い出せないのに33年前の事を覚えているはずもないが、記憶の扉を開けると意外と思い出すことがある。


渡米して最初に行ったニューヨークやボストンも刺激はあったが、テレビや映画で見るアメリカどおりであった。
しかしニューメキシコはチョット違っていた。


当時オジサンの抱くアメリカの田舎は「大草原の小さな家」のイメージであった。
だがニューメキシコには草原はなく荒野である。
鹿や小鳥が飛び交うのではなく、コヨーテとハゲタカが獲物を狙う荒野だ。


何よりも驚いたのが家の作りで、ネーティブ アメリカンの独特なデザインを取り入れている。
オジサンはこのデザインがどうも好きにはなれなかった。


日本の後輩の女子に「ニューメキシコにいる」と手紙を出したら、大きなサボテンの横でメキシカンの大きな帽子とポンチョを着ながら昼寝しているオジサンのイラストを送ってきた。(全然違います)


「アメリカの田舎感が無い」と友人に漏らすと「ニューメキシコだから、よりメキシコ感に近い、しょうがない」と言う。
同じニューが付くならニューヨークかニューハンプシャーの方が良かったとつくづく思った。


見るもの全てが自分の想定外だったので、33年経っても記憶に残って居るのだろうか。


大学で日本語を教えながら英語を学ぶと言うカリキュラムであったので、最低1年はココにいなければならず、その内あきらめもついた。


大学の勉強の事はほとんど覚えていないが、大学があるアルバカーキ市以外の町が印象に残っている。
どこの町もナバホ族のカルチャーが色濃くある。
インデアン(ネーティブ アメリカン)とメキシカンとアメリカンのカルチャーをごちゃ混ぜにしたような所だ。


サンタフェは観光で有名で、スペインの植民地時代を彷彿させる綺麗な町ではあるが、こうした観光地よりロスからアルバカーキのハイウェイ上(かつてのルート66)にあるギャロップという町が印象深かった。

 



ナバホ族のネーティブの人が街をウロウロしているが、ほとんどがアルコール中毒で昼間から酔っ払ってフラフラしている。
政府から補助金を貰えるのだが、ほとんど酒に消えるそうだ。


「かつて騎兵隊と戦った勇姿は何処に行ったんだ」と思ってしまった。


「ロング ウオーク」の後遺症なのか、あるいは悲しい歴史がそうさせてしまったのだろうか。(詳しくはウイキペディアで調べて)


ギャロップのカフェで同い年ぐらいのネーティブの青年と知り合った。
彼は映画に出て来るインデアン戦士の様な鋭い眼と、精悍ながらも笑顔が優しい男だった。
「チャイニーズか?」と聞かれたので「ジャパニーズだ」と答えると大変興味を持たれた。
「こんな田舎でもチャイニーズには会ったことはあるが、日本人は初めてだ」と言う。
「近くにオレの家があるから、飯を食いに来い」と誘われた。


ついて行ってみると小じんまりしてはいるが、綺麗に整えられた家だった。
奥さんは二人の小さい子供の面倒を見ながらも食事を出してくれた。
彼女は小学校の先生をしていると言う。


何を食べたかは覚えていないが、食事をしながら彼は熱心に日本の事を聞いて来た。
彼が言うには
チョット前までは東洋の小さな島国でマゲを結っていたサムライ達が近代化に成功し、アメリカに戦争仕掛けて原爆まで落とされて負けたにもかかわらず不死鳥の様に蘇り、今では経済大国となりトヨタやホンダの車、Sony のウオークマン(その当時は世界を席巻)をアメリカ中に流行らせている。
「日本人はなんちゅう民族だ⁉︎」と思っていたらしい。


実際、彼らインデアンも同じモンゴロイドの種族に入り、親近感を感ずる顔付きである。
遠い先祖が同じかも知れない不思議な歴史を持つ日本人に興味を持つのは自然な事だろう。


オジサンは明治維新以降、
産業を興し経済力を付ける富国政策、
強兵政策によって列強からの干渉を退け、民族の独立を維持し、
教育によって国民の資質の向上を果たした。
と三本の柱で簡単に説明した。


彼は非常に感動してくれた。
つたない英語ながらも、語るオジサンも、聞く彼も興奮して行くのが分かった。
自分の国の歴史に誇りを持って伝える事は嬉しいものである。.
またそれを感動を持って聞いてくれる人がいるのも嬉しい。


彼は、特に教育の重要性を痛感している様であった。
誇りを失い、アル中で街を彷徨う同胞の事が頭にあるのかも知れない。


まだ幼い子供達を見ながら「彼らにはシッカリした教育を受けさせたい。ナバホである事を誇れる様な自分たちでありたい」と言っていた。


別れ際に「good by Japanese Friend !」と手を振る彼の家族に「Good by Navajo Friends!」と手を振った。


33年過ぎたが、彼の精悍ながらも子供たちの将来を見つめる優しい目を思い出せた。


粉雪ふる寒い日であったと思うが、この思い出は暖かかった。

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