砂漠の徒然草のブログ

ネバダで単身赴任、心の泉を求めて彷徨うワタシ。

そこに愛はあるのか!

「名は体を表す」

「名は体を表す」という言葉があるが、自分の名前と60年も相棒関係にあるので次第になじんでくる。
褒められるのも怒られるのもコノ名前なので切っても切り離せない関係になっている。
オギャ~と生まれた時からの付き合いで、墓石に彫られるのもコノ名前だ。


オジサンの2人の息子を名付ける時も一生使われる物なので色々頭を悩ませたものだ。
姓名判断の画数も調べたりして、健康で、明るく、正しく生きて欲しい思いを込めて親は子に名付ける。いわゆる名前は親からの祝福と言える。
オジサンの親も試行錯誤しながら、祝福の思いをもってオジサンを名付けてくれたと思うのです。


オジサンは「清」の一文字を名前の中に貰っている。
「清く生きて欲しい」と言う親の願いが込められていると思う。


今さら金や権力や野望とは関係ない生活をしているので、せめて「清」の名に近づくよう努力しようと思っています。


『心清き者は幸いなり、彼らは神を見るであろう』


イエスの山上の垂訓の御言葉であるが、この一節には思い入れがある。


中学、高校がミッション系だった話は前にしたが、「神がいるか、いないか」という議論は友人とよくした。
簡単に答えが出る訳では無いが、「いらしゃるなら見てみたい」のが人の情である。


どうしたら見る事が出来るのか友人と議論したり無い頭を捻らしてた時、何気なく開いた聖書のページがマタイ伝の「山上の垂訓」で、この一節が目に飛び込んできた。


神を見る為にはコックリさんや霊眼の開発ではなく、断食や滝に打たれる修行でもなく、心を清める事こそ重要と悟った。


さて、では「神を見る事が出来たか」と聞かれると、まだ修行中と応えざるを得ないが、
少し感じる事は出来る。


長く人生を経験して来た多くの人が、自然の中に、人との交わりの中に、苦難と克服の中に何らかの崇高な意思を感じるという。


内村鑑三が『代表的日本人』の中で書かれたように、西郷さんの『敬天愛人』の信条は無私の心で国を思い、自然の中を散策する中で天からのささやく声を感じていたのかもしれない。


オジサンもまだ時間が残っているので「清」という自分の名前が体を成すように努力しなければと思った、風吹く砂漠の夜でした。

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